〜苦難の始まり〜
八戸に帰り、私の新しい生活が始まりました。
2LDKのアパートの一室を事務所にして、朝からパソコンに向かう。昼から夕方までは父の喫茶店を手伝い、夜に帰宅してからはまたパソコン作業に没頭する。そんな目まぐるしい毎日でした。

まずは父の喫茶店の立て直しをしようと内情を見て回りましたが、その実態は散々な有様でした。 経営者とは名ばかりで、店舗はすべてアルバイト任せ。毎日の利益からお金を引っ張り出しては暮らしている状態だったのです。
アルバイトのスタッフから仕事内容を聞き取り、まずは「ずさんなどんぶり勘定」を脱却するため、きちんと帳簿を付けることから始めました。 次にメニューの見直しです。私自身、過去に飲食業の経験もあったため、調理も手伝いながら「新たな看板メニュー」を模索し続けました。
それでも、売上はなかなか伸びません。 営業時間を夜まで延長し、私か父のどちらかが1人で店に立つように工夫もしました。しかし、それでもアルバイトさんたちの給料を捻出するのがやっと、という綱渡りの状態が続いたのです。
ある日、自宅で仕事をしていると、父から電話がかかってきました。
「これで最後だから、お金を貸してほしい」 「もう無いよ。うちの生活だって大変なんだから」
短い沈黙の後、父は言いました。
「……そうか。わかった。さようなら」
いつもより明らかに弱々しい声。そして、最後の「さようなら」という言葉が、どうしても胸に引っかかりました。 不穏な予感がして、急いで家や通帳からお金をかき集め、父の家へと車を走らせました。
暗い部屋で、ぽつんと佇む父の背中。
「このお金は貸す。でもその代わり、これからは俺の言う通りにしてほしい」

私が声をかけると、父は少し涙ぐみながら頭を下げました。 「ありがとう。わかった、言う通りにするから」
私が小さかった頃、あんなに怖くて絶対的だった父の姿は、もうそこにはありませんでした。 「アルバイトの人たちには辞めてもらおう。これからはお父さんと俺、2人で働こう。一からやり直そう」 項垂れる父にそう声をかけると、父は小さく、深く頷きました。
翌日にはアルバイトさんたちに事情を伝えて辞めてもらい、不動産屋にも足を運んで家賃の値下げ交渉をしました。 仕入れ先も見直し、メニューも徹底的に絞り込む。やれることはすべてやり、わずか1ヶ月ほどで新体制へと移行したのです。
そこからの父は、まるで生まれ変わったように働きました。 積極的に店に立ち、お客さんをもてなし、時には自ら調理もこなしました。

そして3ヶ月ほど経った、ある日のことです。 父が「腰が痛い」と言うので、「いいよ、俺が店に出るから休んでな」と伝えると、父は「このくらい大丈夫だ」と、元気そうな笑顔で応えてくれました。
――それが、父との最後の会話になりました。
翌日の夜、携帯に見慣れない番号からの着信と、伝言が残っていました。 それは、「お父さんが倒れたから、すぐに病院に来てくれ」というメッセージでした。
急いで駆けつけた病院のベッドで、父は静かに横たわっていました。 「もう二度と起き上がらない」ということは、ひと目見てすぐに分かりました。
喪失感という言葉では軽すぎる。足元から何かがガラガラと崩れ落ちていくような感覚の中、ただただ呆然と涙を流していたのを、今でも鮮明に覚えています。

それから、あっという間に半年が過ぎました。 何かを深く考える余裕すら一切ないほど、父の葬儀や後片付けで、文字通り「息もつけない日々」が続いたからです。
店や住まいの撤収、父がお世話になった方々への挨拶、そして、山積みの借金の整理。
すべての片付けが一段落し、アパートのベランダに出た瞬間でした。 張り詰めていた糸が切れたように、涙がボロボロと溢れて止まらなくなりました。 季節はすっかり変わり、今にも雪が降りそうな寒空を見上げながら、私は一人で泣き続けました。

しかし、いつまでも立ち止まっているわけにはいきません。 私には、父の保証人となった莫大な借金が残されていたからです。
「とにかく、稼ぐしかない」
退路を断たれた私は、必死の思いで一日中パソコンと向き合いました。収益を上げるためにひたすら勉強し、考えつく限りの施策をすべて実行に移しました。
そしてここから、自分でも信じられないような「快進撃」が始まるのです。
[続く]